是川銀蔵とは何者か?最後の相場師の生涯・200億円の勝負と投資哲学を徹底解説
是川銀蔵(これかわ・ぎんぞう)は、株式市場で数百億円規模の取引を手掛け、1983年に高額納税者番付で全国1位となった伝説的な投資家です。1897年に兵庫県赤穂市で生まれ、1992年に95歳で亡くなるまで、事業の倒産、鉱山経営、株式投資での成功と失敗を繰り返しました。「最後の相場師」という異名で知られています。 (あわせて読みたい:【2026年最新】木村文乃の子供は何人?第1子・第2子の誕生を時系列で紹介)
特に有名なのが、鹿児島県の菱刈鉱山で高品位の金鉱脈が発見されたことを手掛かりに、住友金属鉱山株を大量に取得した1981年から1982年の取引です。約200億円の利益を得たと伝えられる一方、同和鉱業の仕手戦では大きな失敗も経験しました。華々しい成功だけでなく、晩年の経済状況や是川奨学財団の設立まで追うと、その投資哲学の本質が見えてきます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 生涯:1897年生まれ。独学で経済を学び、34歳で株式投資を始めた後、95歳まで活動した投資家。
- 最大の成功:菱刈鉱山の金鉱脈に着目した住友金属鉱山株の取引で、約200億円の利益を得たとされる。
- 長者番付:1983年公表の高額納税者番付で全国1位。申告所得は28億9090万円と報じられた。
- 投資哲学:自分で調査すること、経済の大局を見ること、手持ち資金を超えた無理な投資を避けることを重視した。
- 現在:1992年9月12日に死去。創設に関わった是川奨学財団は2026年現在も活動している。
【人物像を解説】是川銀蔵の生涯と経歴|貧しい漁師の息子から伝説の投資家へ
是川銀蔵の人生を理解するうえで欠かせないのは、株式投資を始める以前から、商売と経済について実践的な経験を積んでいたことです。
生涯に複数回の事業上の失敗を経験し、そのたびに学び直して再起しました。現在の投資家に知られる是川流の投資哲学も、こうした長い経験から形成されたものです。
1897年、兵庫県赤穂市の漁師の家庭に誕生
是川銀蔵は1897年、兵庫県赤穂市で、零細な漁師を営む家庭の7人兄弟の末っ子として生まれました。
裕福な家庭で金融教育を受けたわけではありません。高等小学校を卒業すると、1912年、14歳で神戸の貿易商に丁稚奉公に出ます。
奉公先の倒産を経験したことが、独立して事業を営みたいという意識を強めるきっかけになりました。
中国での商売と関東大震災での成功
1914年、是川は中国へ渡り、青島などで日本軍関係の商取引に携わりました。商売で資金を築いたものの、第一次世界大戦の影響を受けて財産を失います。
帰国後は大阪で鉄のブローカーとして活動し、伸鉄や亜鉛メッキなどの工場経営にも携わりました。
1923年の関東大震災では、復興需要によって建築資材が不足すると予測。トタン板を買い集め、大きな利益を得ました。
需要が発生する前に資材を確保するという考え方は、後年の株式投資にも通じています。単純に値上がりを期待するのではなく、社会や産業の変化から将来の需要を読む姿勢です。
1927年の金融恐慌と3年間の独学
しかし、事業は順調に続きませんでした。1927年の金融恐慌では、取引銀行の倒産に巻き込まれ、経営していた会社を失います。
生活が苦しくなるなか、是川が選んだのは経済の勉強でした。大阪の中之島図書館に通い、約3年間、日本経済や世界経済、金融について独学したと伝えられています。
1931年、34歳で株式取引を本格的に開始。財団の公式経歴によれば、当初の元手70円を同年中に7000円まで増やしました。
1933年には大阪で経済研究所を設立し、相場の研究や経済分析に取り組みます。
朝鮮半島での鉱山経営と戦後の再出発
1938年には朝鮮半島に渡り、是川鉱業を設立。鉄工所や鉱山の経営に携わりました。鉱業や製鉄に関する実務経験は、後年の住友金属鉱山株への投資判断にも影響した重要な経歴です。
1945年の敗戦によって、それまで築いた財産を失い、投獄も経験しました。翌1946年に日本へ引き揚げた後は、農業研究にも取り組みます。
株式市場に本格復帰するのは1960年です。戦後の苦しい時期を経て、再び事業と投資の世界に戻りました。

【経歴年表】是川銀蔵の主要な転機と成功・失敗を時系列で整理
是川銀蔵の経歴には、事業家としての成功、株式市場での再起、鉱山株の大勝負という複数の転換点があります。
特に注目したいのは、1981年の菱刈鉱山をめぐる投資が、突然の幸運によって生まれたものではないことです。それ以前の鉱山経営や企業分析の経験が、投資判断の土台になっていました。
| 年代 | 出来事 | 関係する人物・企業・意義 |
|---|---|---|
| 1897年 | 兵庫県赤穂市に誕生 | 漁師の家庭に生まれる |
| 1912年 | 14歳で丁稚奉公 | 神戸の貿易商で商売を学ぶ |
| 1914年 | 中国で商売を始める | 戦乱の影響で財産を失う |
| 1923年 | 関東大震災の復興需要を捉える | トタン板の取引で利益を得る |
| 1927年 | 金融恐慌で事業が破綻 | 中之島図書館で経済を独学 |
| 1931年 | 株式投資を開始 | 70円を元手に取引を始める |
| 1938年 | 朝鮮半島で鉱山経営 | 是川鉱業を設立 |
| 1945~1946年 | 敗戦で財産を失い帰国 | 農業研究などに取り組む |
| 1960~1965年 | 株式投資を再開 | 泉北ニュータウン周辺の土地取引でも利益を得る |
| 1976~1977年 | 日本セメント株に投資 | 約30億円の利益を得たとされる |
| 1978~1980年 | 同和鉱業株の大規模取引 | 非鉄金属相場の急落で苦戦 |
| 1979年 | 是川福祉基金を設立 | 現在の是川奨学財団につながる |
| 1981~1982年 | 住友金属鉱山株を大量取得 | 菱刈鉱山の金鉱脈に着目 |
| 1983年 | 高額納税者番付で全国1位 | 申告所得28億9090万円 |
| 1992年9月12日 | 95歳で死去 | 晩年まで投資家として知られた |
この年表から分かるのは、是川が株式投資だけで成功した人物ではないということです。商取引、土地、鉱山、製造業など、さまざまな事業を経験してきました。
とりわけ1970年代以降の投資は、産業の需要や資源価格を読み、企業の将来価値を見極めようとする姿勢が顕著になっています。
【200億円の利益】住友金属鉱山株と菱刈鉱山の金鉱脈を見抜いた理由
是川銀蔵の名前を日本全国に知らしめたのが、1981年から1982年にかけての住友金属鉱山株への投資です。
この取引のきっかけは、鹿児島県にある菱刈鉱山で高品位の金銀鉱脈が発見されたという報道でした。
1981年、新聞の小さな記事に注目
1981年9月、金属鉱業事業団(現在のJOGMECにつながる組織)が鹿児島県の菱刈鉱区で高品位の金銀鉱脈を発見しました。
この発見は住友金属鉱山にとっても大きな意味を持っていました。同社は別子銅山などの閉山によって資源事業の将来が課題となっていた時期であり、新しい鉱山の発見は事業の継続に関わる重要なニュースだったのです。
是川は1981年9月18日付の日本経済新聞の記事に注目したと、後年の取材記事で紹介されています。
彼が関心を持ったのは、金鉱脈が発見されたという事実だけではありませんでした。鉱山の地質構造や鉱脈が広がる可能性、採掘の将来性に目を向けていたのです。
鉱山経営の経験が住友金属鉱山株の判断を支えた
是川は朝鮮半島で鉱山や製鉄所を経営した経験がありました。そのため、鉱山開発に必要な地質や採算性、資源の価値について、一般の投資家よりも実務的な知識を持っていました。
彼は実際に菱刈鉱山の現地を訪れ、鉱脈が周辺にも続く可能性について独自に考察したと伝えられています。
当時の住友金属鉱山株は220~230円前後で推移していました。是川は証券会社を通じて買い注文を出し、信用取引も活用しながら取得を進めます。
報道や投資史の解説では、ピーク時の保有株数は約5000万株、発行済み株式数の約16%に達したとされています。
金鉱脈の開発発表で株価が急上昇
住友金属鉱山株は、その後の市場の期待を背景に大きく動きました。
1982年2月には772円の高値をつけた後、3月には420円まで下落するなど、激しい値動きが発生しています。
この局面は、是川にとっても簡単な勝負ではありませんでした。株価が下落するなかで保有を続けるには、当初の地質調査と事業への見通しを信じる必要があったからです。
その後、1982年3月の金鉱開発に関する報道などをきっかけに、市場の評価が変わります。株価は再び上昇し、是川は1000円台で保有株を売却したと伝えられています。
この一連の取引による利益は、約200億円とされています。ただし、この数字は取引による利益として伝えられるもので、本人の生涯を通じた純資産額や最終的な手取り資産と同一ではありません。
菱刈鉱山は2026年現在も日本を代表する金鉱山
菱刈鉱山の価値は、その後の実績によっても裏付けられています。
住友金属鉱山の公式資料によれば、菱刈鉱山は1981年に鉱床が発見され、1985年に出鉱を開始しました。鉱石1トン当たりの平均金量は約20グラムで、世界の主要金鉱山の平均である3~5グラムを大きく上回る高品位です。
つまり、是川が注目した鉱山は、単なる投機的な話題ではありませんでした。実際に長期的な生産を続ける重要な資源拠点となったのです。
この点が、彼の投資を単なる株価予想とは異なるものにしています。鉱山の実態を調べ、資源の価値を企業価値に結び付けて考えたことが、判断の核心でした。

【長者番付1位の真相】是川銀蔵の資産・200億円の利益と同和鉱業の失敗
住友金属鉱山株の成功によって、是川銀蔵は1983年に発表された高額納税者番付で全国1位になりました。
ただし、ここでは「200億円の利益」「28億9090万円の申告所得」「生涯の資産」を区別して理解する必要があります。
長者番付1位の申告所得は28億9090万円
1983年公表の高額納税者番付で、是川の申告所得は28億9090万円と報じられています。
住友金属鉱山株の取引で得た利益が、全国1位という実績につながったとされています。
約200億円という利益の数字と、28億9090万円という申告所得の数字は意味が異なります。前者は株式取引で得た利益として伝えられる金額、後者は番付に記載された申告所得です。 (あわせて読みたい:【結婚観を本人インタビューから検証】佐津川愛美の理想の結婚相手とは?)
そのため、「是川銀蔵は200億円の資産をそのまま保有していた」と理解するのは正確ではありません。
同和鉱業の仕手戦では大きな失敗を経験
住友金属鉱山株の大成功より前、是川は同和鉱業(現在のDOWAホールディングス)株でも大規模な取引を行っていました。
1978年ごろから、非鉄金属市況の回復を見込んで同和鉱業株を買い集めます。本人名義だけでなく、家族や知人名義を含めて株式を取得し、ピーク時には約6000万株を保有していたと伝えられています。
当初は非鉄金属相場の回復によって株価が上昇し、1980年初頭には900円前後まで達しました。含み益は300億円規模に達する計算だったとも紹介されています。
ところが、1979年から1980年にかけての国際的な銀相場の急落などを背景に、非鉄金属市場の環境が悪化。株価は大きく下落しました。
この経験は、是川の投資人生における重要な教訓となりました。将来の見通しが正しくても、利益を確定するタイミングを逃せば、結果は大きく変わってしまいます。
成功と失敗を比較すると見える投資家としての特徴
是川の投資歴を評価する際には、成功した住友金属鉱山だけでなく、同和鉱業の失敗も合わせて見る必要があります。
両者を比較すると、彼が単に企業の将来性を見抜くだけでなく、相場の過熱や売却時期の判断にも向き合っていたことが分かります。
- 日本セメント:景気回復と公共投資による需要増加を見込み、株式を買い集めた。
- 同和鉱業:非鉄金属市況の回復を見込んだものの、国際相場の急変によって利益確定が難しくなった。
- 住友金属鉱山:菱刈鉱山の金鉱脈という具体的な資源価値に着目し、大きな利益を得た。
是川の成功は、優れた分析力だけで説明できません。相場の変化を受け入れ、失敗から次の判断材料を得る姿勢も、その投資人生を特徴付けています。
【投資の三鉄則】是川銀蔵の投資手法と名言から学ぶ哲学
是川銀蔵の投資哲学を知るうえで参考になるのが、自身の経験をまとめた著書『相場師一代』です。
同書では、銘柄選び、経済の見通し、資金管理などについて、長年の投資経験から導いた考え方が紹介されています。
是川流投資の三鉄則「カメ三則」
是川の投資原則として知られるのが、次の三つです。ゆっくりと慎重に行動する亀の姿になぞらえた考え方です。
第一の鉄則:水面下にある優良銘柄を選び、じっと待つ
すでに市場で人気化した銘柄を追いかけるのではなく、まだ十分に評価されていない優良企業を探すことです。
市場の注目度が低い段階で企業の価値を見極め、将来の成長が評価されるまで待つ。この考え方は、現在のバリュー投資にも通じる部分があります。
第二の鉄則:経済と相場の動きから目を離さず、自分で勉強する
個別企業だけを見ても、株価の動きを十分に理解することはできません。
国内経済だけでなく、世界経済、資源価格、産業構造、国際情勢などを継続的に調べることが必要だという考え方です。
同和鉱業や住友金属鉱山への投資では、非鉄金属市況や鉱山の将来性を分析していたことが、この原則を実践した例として挙げられます。
第三の鉄則:過大な思惑を避け、手持ち資金の範囲で行動する
どれほど確信がある投資でも、予想が外れる可能性はあります。
将来への期待だけで無理な資金を投入するのではなく、自分が管理できる資金の範囲で取引することを重視しました。
投資五か条にも表れる慎重な企業分析
是川には、三つの原則とは別に「投資五か条」と呼ばれる考え方もあります。
- 銘柄は人に勧められるものではなく、自分で勉強して選ぶ。
- 2年後の経済の変化を予測し、大局観を持つ。
- 株価には妥当な水準があり、値上がり株の深追いは禁物。
- 株価は最終的に業績で決まるため、腕力相場を敬遠する。
- 不測の事態など、リスクは常につきものと心得る。
この五か条から分かるのは、是川が株価の短期的な動きよりも、企業の事業価値や経済環境を重視していたことです。
是川銀蔵の名言「誠と愛」に込められた人生観
投資の心得と並んで、是川の人間性を表す言葉として知られているのが「誠と愛」です。
公益財団法人是川奨学財団の公式サイトでは、自身の処世訓について、次のように紹介されています。
「誠と愛」
これは単なる投資の格言ではありません。人に誠実に接し、愛情を持って生きるという人生観を表す言葉です。
是川は株式投資によって得た利益を、恵まれない子どもたちのために役立てたいという思いを持っていました。
財団の公式サイトに掲載された『相場師一代』のあとがきにも、株で得た資金を社会的に困難な状況にある子どもたちのために使いたいという趣旨が記されています。
是川の投資手法を現代の投資家がそのまま再現できない理由
是川の投資スタイルには、企業分析や長期的な経済観測など、現在でも参考になる部分があります。
一方、当時の株式市場と現在では、情報の流通速度、信用取引の仕組み、企業情報の開示制度、市場参加者の構成が大きく異なります。
特に是川は、住友金属鉱山株の取引で信用取引を活用したとされています。これは本人の資金管理原則と単純に一致するものではなく、実際の取引には大きなリスクが伴っていました。
学ぶべきなのは、大胆な資金投入そのものではありません。自分で調べ、投資仮説を立て、企業価値を判断し、利益確定と損失管理を考える一連の思考過程です。

【誠備事件との関係】加藤暠の仕手戦と是川銀蔵が見せた逆転劇
是川銀蔵を語るうえでは、誠備事件との関係も見逃せません。
誠備グループは、加藤暠(かとう・あきら)が主宰した投資グループです。1980年前後に大規模な仕手戦を展開し、当時の証券市場で大きな存在感を示しました。
誠備グループとは何だったのか
公益財団法人日本証券経済研究所の証券史研究によると、誠備グループは加藤暠が率いた大規模な仕手集団でした。
同グループは、個人投資家を中心とする市場への変革を掲げ、多くの資産家や政治家などを巻き込んで活動していました。
1980年の宮地鉄工株をめぐる仕手戦で活動がピークに達し、東京証券取引所も相場の過熱を抑えるための措置を取っています。
1981年2月、加藤が脱税容疑で東京地検に逮捕されると、誠備グループは急速に崩壊しました。
是川銀蔵は誠備グループに売り向かった
兜町を長年取材してきた記者の千葉明氏によると、是川は誠備グループが関係する銘柄の仕手戦に対して売り向かったといいます。
加藤の摘発後、関連銘柄が急落したことで、是川は結果的に勝利を収めました。この逆転劇によって、兜町では「最後の相場師」としての存在感が改めて語られるようになったとされています。
ただし、誠備事件は加藤暠を中心とするグループの事件であり、是川が事件の主宰者だったわけではありません。両者は同じ市場で対立する立場にあったと理解するのが適切です。
「最後の相場師」という異名の背景
是川が「最後の相場師」と呼ばれるようになった背景には、単なる資産規模だけでなく、実際に大量の株式を取得し、市場の需給に大きな影響を与える取引を行ったことがあります。
さらに、70代、80代になっても株式市場の第一線で活動し続けた点も、異名を印象付けました。
本人は「相場師」という呼ばれ方を好まなかったとも伝えられています。長年の取引先だった証券会社関係者の証言では、十分な調査や研究を行わずに賭ける人物と同じ扱いをされることに抵抗があったといいます。
このエピソードは、是川自身が自分を単なる投機家ではなく、経済や企業を研究する投資家として捉えていたことを示しています。 (あわせて読みたい:川越シェフの水800円騒動は何だった?2026年最新情報と炎上の真相を徹底解説)
【晩年・死去・現在】是川銀蔵の最期と是川奨学財団の活動
是川銀蔵は1992年9月12日、95歳で亡くなりました。文藝春秋に掲載された元証券会社幹部の回顧記事では、死因は老衰とされています。
2026年現在、本人はすでに亡くなっていますが、その名前と理念は公益財団法人是川奨学財団を通じて受け継がれています。
晩年も投資への関心を持ち続けた
是川は住友金属鉱山株の大成功後も投資を続け、本田技研、松下電器、富士フイルム、不二家などの銘柄にも関心を持っていたと紹介されています。
しかし、晩年の相場環境は厳しいものとなりました。1990年前後の株式市場の下落などもあり、過去の成功だけでその後の資産状況を説明することはできません。
一部の金融・経済関連の記事では、死亡時に約24億円の借金があり、遺族が相続放棄したという話も紹介されています。
ただし、この負債額や相続放棄については、報道・二次資料で伝えられている情報であり、確定した公的記録として扱うことはできません。
一方、本人の著書や当時の投資を振り返る記事からは、晩年まで投資に対する強い関心を持っていたことがうかがえます。
1979年設立の是川奨学財団とは
是川の人生を振り返るうえで、株式投資の成功と同じくらい重要なのが、社会福祉への取り組みです。
1979年12月、是川銀蔵を中心とする在阪実業家数名によって、是川福祉基金につながる財団が設立されました。現在の公益財団法人是川奨学財団の前身です。
設立の目的は、児童養護施設などに入所している子どもや、交通災害によって親を失った遺児などの進学を経済的に支援することでした。
1980年度には大阪府内の児童養護施設に入所する高校進学希望者を対象に奨学制度を開始。1982年度には大学進学希望者にも対象を拡大しています。
2012年4月には公益財団法人へと組織変更されました。
2026年現在も続く奨学金事業
是川奨学財団の公式サイトでは、2026年にも奨学生の選考や翌年度の応募案内に関する情報が公開されています。
現在の主な事業目的は、経済的な理由で進学や修学が困難な児童養護施設などの入所児童や里親委託児童に対し、奨学金を給付することです。
一方、交通災害遺児などを対象とする第二の進学助成制度については、公式サイトで新規受付を休止していると説明されています。
是川の投資で得た資金を社会に還元したいという思いは、本人の死後も教育支援という形で残っています。
株式市場での勝敗は時代とともに変わりますが、教育機会を支える仕組みは次の世代にも影響を与えます。是川の人生には、資産形成だけでは測れない側面がありました。
【プロの結論】是川銀蔵の投資哲学から現代の投資家が学ぶべきこと
是川銀蔵の投資人生を分析すると、成功の要因は単なる度胸や大胆さではなく、情報収集、仮説構築、産業分析、実地調査にあったことが分かります。
その一方で、同和鉱業株の失敗や晩年の資産状況は、どれほど経験豊富な投資家でも相場のリスクから逃れられないことを示しています。
教訓1:人気銘柄ではなく、企業の価値を調べる
是川が菱刈鉱山に注目したのは、単に金価格が上昇するという期待だけではありませんでした。
鉱山経営の経験をもとに、鉱床の構造や資源の価値、住友金属鉱山の将来性を考察しました。
現代の投資家も、SNSやランキングで話題になっている銘柄をそのまま購入するのではなく、売上高、利益率、財務状況、競争力などを自分で確認する必要があります。
教訓2:正しい予測と利益確定は別の能力
同和鉱業の取引では、非鉄金属市況の回復を見込んで大きな含み益を得ながら、その後の相場急落で苦戦しました。
一方、住友金属鉱山株では、菱刈鉱山の価値を見抜いただけでなく、株価が上昇した局面で売却しています。
この違いは非常に重要です。企業の将来性を正しく予測できても、適切な価格で売却できなければ、利益として確定しません。
教訓3:投資の成功を資産の永続性と混同しない
200億円の利益や長者番付1位という記録は、是川の投資能力を象徴するものです。
しかし、一時的に大きな利益を得ることと、長期的に資産を守り続けることは別の課題です。
市場環境の変化、税金、資金調達コスト、信用取引のリスクなどを考慮しなければ、過去の成功が将来の安全を保証することはありません。
どのような人が是川銀蔵の投資哲学を参考にできるのか
- 参考にしやすい人:企業の財務や産業構造を調べることが好きで、長期的な視点で投資判断をしたい人。
- 特に学ぶべき人:周囲の評判や短期的な株価上昇に流されやすく、自分の投資判断を確立したい人。
- 注意が必要な人:短期間で大きな利益を得ようとし、信用取引や集中投資を安易にまねしようとする人。
是川銀蔵の最大の教訓は、相場で勝つためには自分の頭で考える必要があるということです。しかし、そのためには分析だけでなく、資金管理と撤退の判断も欠かせません。
【是川銀蔵に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:是川銀蔵は何歳で亡くなりましたか?
A1:1992年9月12日に95歳で亡くなりました。文藝春秋の回顧記事では、死因は老衰と紹介されています。
Q2:是川銀蔵はなぜ「最後の相場師」と呼ばれたのですか?
A2:住友金属鉱山や同和鉱業などの大規模な株式取引を手掛け、80代になっても市場の第一線で活動したためです。特に1983年の高額納税者番付全国1位という実績が、その異名を広く知らしめました。
Q3:是川銀蔵は住友金属鉱山株でいくら儲けましたか?
A3:約200億円の利益を得たと伝えられています。菱刈鉱山で発見された高品位の金鉱脈に着目し、住友金属鉱山株を大量に取得したことが成功の背景にあります。
Q4:是川銀蔵が長者番付1位になったのは何年ですか?
A4:1983年公表の高額納税者番付で全国1位になりました。申告所得は28億9090万円とされています。
Q5:是川銀蔵の投資の三鉄則とは何ですか?
A5:水面下にある優良銘柄を選んで待つこと、経済や相場の動きを自分で勉強すること、過大な思惑を避けて手持ち資金の範囲で行動することです。「カメ三則」とも呼ばれています。
Q6:是川銀蔵の著書『相場師一代』は現在も読めますか?
A6:はい。小学館から文庫版が刊行されています。本人の投資哲学や波乱に富んだ人生を知るための代表的な資料です。また、1991年には自伝『波乱を生きる』も講談社から刊行されています。
Q7:是川奨学財団は現在も活動していますか?
A7:はい。2026年現在も公益財団法人として活動しています。児童養護施設などに入所する子どもや里親委託児童を対象に、奨学金を給付しています。
Q8:是川銀蔵は亡くなったときに24億円の借金があったのですか?
A8:約24億円の負債があり、遺族が相続放棄したという情報は一部の経済記事などで紹介されています。ただし、確定した公的記録として確認できる情報ではなく、伝聞として区別する必要があります。
まとめ:是川銀蔵の人生が残した投資と社会貢献の教訓
是川銀蔵は1897年に兵庫県赤穂市で生まれ、幾度もの事業の失敗を経験しながら、独学で経済を学び、株式投資の世界で大きな成功を収めた人物です。
特に1981年から1982年にかけての住友金属鉱山株の取引は、菱刈鉱山の金鉱脈という実際の資源価値を見抜いたことで知られています。約200億円の利益、1983年の長者番付全国1位という記録は、今なお日本の投資史に残る出来事です。
しかし、同和鉱業の仕手戦での失敗や晩年の経済状況も忘れてはいけません。大きな利益を得る能力と、長期的に財産を守る能力は必ずしも同じではないからです。
彼が残した「カメ三則」は、情報を自分で調べ、経済の流れを読み、無理のない資金管理を行うという、時代を超えて参考になる考え方です。
そして、1979年に設立された是川奨学財団は、2026年現在も教育支援を続けています。「最後の相場師」と呼ばれた人物の足跡は、株式市場での勝負だけでは終わりません。
是川銀蔵の人生から読み取れる最大の教訓は、利益の大きさだけを成功の基準にせず、知識を磨き、リスクと向き合い、得たものを社会にどう還元するかまで考えることにあるのではないでしょうか。
主な参照資料・確認資料
- 公益財団法人是川奨学財団「是川銀蔵とは」「財団について」
- 住友金属鉱山株式会社「住友金属鉱山の歴史」「菱刈鉱山」
- 日本証券経済研究所「歴代証券局長口述記録を読む」
- 文藝春秋、吉岡武夫氏による是川銀蔵の回顧記事(2026年10月23日)
- 千葉明氏による兜町・是川銀蔵の取材記事
- 山下裕士氏による是川銀蔵の投資哲学・取引分析
- 国立国会図書館の著作・人物典拠資料
これらの資料を照合し、特に200億円の利益と長者番付の申告所得、晩年の負債に関する伝聞を区別しています。 (あわせて読みたい:山Pのドラマ出演作一覧|歴代代表作から2026年最新作まで放送年・役名を徹底解説) (出典: 是 川 銀蔵(Yahoo!ニュース))